夜の蕁麻疹

日々の想い、映画や本の感想

世界観を守ることと壊すこと

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不安感というのは不思議である。

理由のない不安があるのだ。大抵の不安は理由のないものだ、とも云える。理由は大抵、あとからついてくるようだ。
未知なものに対する時、人は不安になる。慣れないことをしようとするときも不安になる。失敗したらどうしようとか、傷つけられたらどうしよう、とか。こういう物事は、理由のある不安として、わかりやすい。でも、これらの理由は本当の理由だろうか?本当に人は失敗を恐れているのだろうか?傷つくことを恐れるだろうか?私は違うと思う。人は常に、自分自身の裡に生ずる心理を恐れているのだ。自身の創った世界観の崩壊を恐れるのである。
戦場の兵士は死を恐れる。D-dayに上陸用舟艇の船底で味わった恐怖を思えばいい。不安のあまりに発狂し、発狂してしまえば不安から開放される。狂気を手に入れれば兵士は死を恐れなくなる。狂気は世界観の放棄だから。そういう兵士は強いかもしれないが、死に近いだろう。不安は人が身の安全を確保するための、ある機能なのだろう。だから、それは理屈よりも直感に由来していて、説明のつかないことも、つまり理由がわからないこともあるのだ。

不安は、一体何から私を守ってくれているのだろうか?私がどんな事に、どんな時に不安を感じているのか、よく思い出すがいい。それは世界観の崩壊を促すもの、そして新たな世界を作り出す鍵になるものかもしれない。

歪んだ認識について

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どんなに酷いことにでも、人は慣れてしまうものだ。だから、習慣には十分注意したほうがいい。習慣はその人そのものである。


毎日毎日、セックス抜きではいられないのは病気なのだそうだ。人間だれでもセックスが気になってしかたがないものだと思っていたけれど、実際は案外セックス抜きでどうにでもなる人が大勢なのかもしれない。それ抜きで己が保てないというようなのは、やはり依存症という病なのである。実際に性交に及ぶ場合ばかりでなく、アダルト動画視聴やマスターベーションをやめられないなど依存の形は様々のようだ。私などはもっぱらアダルト動画に依存して、暇さえあればサイトを覗いている。


当初は後ろめたさや恥の感覚を持っていた。しかし、習慣になるにつれてそういう歯止めは全く無くなり、日常の普通の行為になっていった。動画を見ながらマスターベーションするとしても、それは男としてあたりまえのことなのだと考えるようになっている。私のような男は多いだろう。が、程度の差はあれそれを恥と思わぬものはどれくらいいるだろうか。昔のように本やビデオテープなら家族に見つかった時点で羞恥が生まれ、それが歯止めにもなるだろう。今はブラウザを閉じて履歴を消せばなかったことになってしまう。しかも、消せない履歴は確実に性欲の内側を蚕食している。私の性欲は、おそらくそれがために歪んでいる。しかし習慣によって歪んだ認識は、その歪みを認識しない。そうして、いつのまにかそれは歪みですらなくなってしまうのだ。

 

不幸な結婚生活というものも、酷い習慣をして認識を歪ませ、人生を様々に破壊して不幸な人格を固定化する。重大な問題だ。子供のためだからというのは歪んだ認識パターンの最たるもので、多くの人がこれを習慣化している。これを欺瞞ととるかどうかは人生観に関わることだ。守るにたると考えれば守るだろう。欺瞞ととれば捨てるべきだろう。欺瞞でも悪よりはまし、とすら云うだろうか。悪は恐らく欺瞞以外のところにあって、一見したところ至極まっとうで潔く見える可能性がある。それは恐ろしいこと、人は悪を恐れるがゆえに欺瞞に墜ちるのだ。

些事と芸術

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「BLUE VALENTINE」を観た。
画面に大映しになる主人公たちの表情は一様に重苦しく、倦怠が漂っている。それは日常の様子であり、目新しいものではない。映画という枠に切り取られたときにドラマとなって普遍性をもち、だれもが感じる倦怠が一つの真実のような顔をして感動を呼び覚ます。
真実のような顔。良い物語は、その意図するところによって日常の些事を真実のような顔にする。観客は、自分たちの日常に潜んでいる真実に気がついて嬉しくなり、慰めを得る、それが芸術の効用だ。
あらためて、女に生まれなくて良かったと思った。自分の女嫌いを思い知らされて、これからの結婚生活にある種の諦めがついた。恋愛そのものには救いなどはない。救いは一つひとつの煌めきのなか、打ち上がる花火の閃光の中にあるに過ぎない。それはきっと素晴らしいことなのだ。物語はハッピーでは無いけれど、むしろ爽やかですっきりした後味である。

掻くようにして、書く

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夜に蕁麻疹が出るようになった。

なんでも夜になると交感神経の活性が落ちて副交感神経優位になるためにヒスタミン遊離が起こりやすくなるのだとか。本当のことかどうかは知らない。でも、決まった時間に腰周りがムズムズと痒くなり、うす気味の悪い膨疹が蠢き出すのを夜毎見るにつけて、そんな説明でも納得してみたくなる。勿論、内科医としてのプライドもあるのでそういう方面の記事を探してみたが、どうも真面目にはなれないようである。やはり自分のこととなると、手っ取り早く安心するものを消費して満足してしまう。つまり、素人の書いたブログ記事や根拠不明の医療記事なんかを瞥見してすましている。自分の体調のことは、とことん悪くならない限り向き合いたくないものだ。まあ兎に角、その程度には疲れているということなのである。

ブログのタイトルは、そんなこんなで思い付いた。別に深い意味はない。かゆいところをポリポリと掻くようにして、書いていきたいのだ。上手く「かける」かどうか。