夜の蕁麻疹

日々の想い、映画や本の感想

歪んだ認識について

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どんなに酷いことにでも、人は慣れてしまうものだ。だから、習慣には十分注意したほうがいい。習慣はその人そのものである。


毎日毎日、セックス抜きではいられないのは病気なのだそうだ。人間だれでもセックスが気になってしかたがないものだと思っていたけれど、実際は案外セックス抜きでどうにでもなる人が大勢なのかもしれない。それ抜きで己が保てないというようなのは、やはり依存症という病なのである。実際に性交に及ぶ場合ばかりでなく、アダルト動画視聴やマスターベーションをやめられないなど依存の形は様々のようだ。私などはもっぱらアダルト動画に依存して、暇さえあればサイトを覗いている。


当初は後ろめたさや恥の感覚を持っていた。しかし、習慣になるにつれてそういう歯止めは全く無くなり、日常の普通の行為になっていった。動画を見ながらマスターベーションするとしても、それは男としてあたりまえのことなのだと考えるようになっている。私のような男は多いだろう。が、程度の差はあれそれを恥と思わぬものはどれくらいいるだろうか。昔のように本やビデオテープなら家族に見つかった時点で羞恥が生まれ、それが歯止めにもなるだろう。今はブラウザを閉じて履歴を消せばなかったことになってしまう。しかも、消せない履歴は確実に性欲の内側を蚕食している。私の性欲は、おそらくそれがために歪んでいる。しかし習慣によって歪んだ認識は、その歪みを認識しない。そうして、いつのまにかそれは歪みですらなくなってしまうのだ。

 

不幸な結婚生活というものも、酷い習慣をして認識を歪ませ、人生を様々に破壊して不幸な人格を固定化する。重大な問題だ。子供のためだからというのは歪んだ認識パターンの最たるもので、多くの人がこれを習慣化している。これを欺瞞ととるかどうかは人生観に関わることだ。守るにたると考えれば守るだろう。欺瞞ととれば捨てるべきだろう。欺瞞でも悪よりはまし、とすら云うだろうか。悪は恐らく欺瞞以外のところにあって、一見したところ至極まっとうで潔く見える可能性がある。それは恐ろしいこと、人は悪を恐れるがゆえに欺瞞に墜ちるのだ。